海外旅行記           

<20周年記念特別企画>
      北京4日間

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 3日目:モーニングコール: 6:00
      朝食      : 6:30    出発    : 7:30

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天安門広場

  天安門広場は南北 88m、東西300mの巨大な広場で、総面積は44万㎡。一説には50万人とも100万人ともいわれる大規模集会を開催することができる世界最大級の広場だ。もともとは正陽門(前門)から天安門へと通じる広めの通路で、両側には朝廷の諸機関が建ち並んでいた。北京の中心であり、中国の象徴でもある天安門広場は地方在住の中国人にとって一度は訪れてみたい場所であり、今でも大勢の観光客でにぎわっている。一方で、天安門広場は政治運動の中心地。1919年の五四運動をはじめ、文化大革命、1989年のいわゆる天安門事件では多くの学生や市民が集合し政治運動を行った。とにかく広い。

前方は天安門 毛主席記念堂と人民英雄記念碑

人民英雄記念碑

  高さ37.94mの石碑で、1952年から制作が開始され、1958年に完成した。清末の蜂起から抗日ゲリラ戦までの名もなき「革命烈士」を顕彰するもので、正面には毛沢東の筆になる「人民英雄永垂不朽」の金メッキ文字が輝いている。裏面の文字は周恩来のもの。(写真:人民英雄記念碑、奥が人民大会堂)

人民大会堂

 天安門広場の西側に位置する建物で、中華人民共和国の建国10周年を記念して1958年から1959年にかけて建造された。床面積17万㎡を超える広い建物の内部には、1万人を収容できる会議場「万人礼堂」、「北京庁」「四川庁」など全国の省の名が付けられた応接室などをはじめ、300に及ぶ会議場などの部屋がある。
 毎年3月には全国人民代表大会が行われるほか、5年に1度、中国共産党大会も開催される。(写真:人民大会堂)

天安門

  1949年10月1日、毛沢東は天安門の楼閣から中華人民共国の成立を高らかに宣言し、広場には拍手と歓声がうずまいた。天安門は今に至るも中国の象徴である。
 天安門は紫禁城の外城壁南端に位置する正門。その原型は1417年(明の永楽15年)に建てられた承天門だが明末に焼失し、1651年(清の順治8年)に現在の規模に増築され、その折りに名前も天安門と変わっている。紅墻と呼ばれる高さ約12mの赤い城壁の上には2層の楼閣がそびえ立ち、明や清の時代にはここから皇帝の即位などの重大事の詔書が発せられた。楼閣は建国以来長らく非公開であったが、1988年から有料で一般公開され、誰でも楼上からの絶景を楽しむことができる。
 天安門の前には人工の川が流れ、そこに白玉石の橋が架けられている。これが外金水橋で、中央の橋は皇帝専用、その両側が皇族用、その外側が身分に応じた官員用と分けられていた。

天安門に近づく 天安門
天安門広場から天安門を望む 天安門をバックに!
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故宮

 故宮、かつての名を紫禁城という。明、清の歴代皇帝と皇后が暮らし、広大な中華帝国のまさに中心となったその空間は、そのまま故宮博物院として その姿を今に伝えている。現在北京の故宮博物院が収蔵する文物はおよそ93万4000点、国民党政権により台北の故宮博物院へ運ばれたものが約64万点というから合計で160万点もの貴重な文物が現存する。故宮収蔵の文物は歴代王朝がその正当性を強調するために収集し連綿と受け継がれた「国の宝」。 皇宮の遣構と超一級の珍宝を合わせ見られるのが故宮の魅力だ。1987年には世界遺産にも登録された。

故宮博物館院成立と文物の流転

 1911年に辛亥革命が勃発、翌12年に宣統帝溥儀は退位した。しかし、中華民国政府と取り交わした「皇室優待条件」により、皇帝一家は引き続き紫禁城に居住することとなった。1924年の溥儀追放後の紫禁城は中華民国政府に接収され、翌1925年から故宮博物院として一般公開を開始した。
 その後、1931年の満洲事変に危機感を抱いた民国政府は1933年から収蔵文物の多くを南方に疎開させる。1945年の日本敗戦後も国共内戦が激化して文物は北京に戻れず、国民党の台湾遷移にともない一部が台湾に移送されて台北にも故宮博物院ができることになった。

故宮の構造

 故宮はふたつの部分に大別できる。ひとつは「外朝」と呼ばれるオフィシャルなエリアで、もうひとつは「内廷」という皇帝一家のプライベートスペース。外朝は午門から太和殿、中和殿、保和殿にいたる公式行事や儀式が行われた殿閣および左右の殿閣を含む。内廷は乾清門以北の殿閤をいう。そして、内中路、内西路、外西路、内東路、外東路と分けられる。南の正門である午門と北の正門である神武門は皇帝が起居する殿閣が南北一直線上に配列されその線は北京全体の中心線とも重なっている。
 故宮の総面積は約72万㎡であり、その中に総計で約15万㎡を占める大小の建物があり、その部屋数は約9000ともいわれる。全体は縦長の長方形であり、周囲は幅約52mの筒子河という濠に囲まれ、高さ約10mの城壁に守られている。また、城壁の四隅には角楼が配されている。今回は、外朝は午門から太和殿、中和殿、保和殿と、内廷は、内中路は、乾清門だけと、外東路(珍宝館)を観光した。(故宮MAPの赤い□のところを観光した。)

午門

 故宮の正面入口で午門の午は南のこと。古来中国では北を背に南面するのが正式とされており、南門は正門という位置付けである。門全体が逆凹字形をしており、中央には9間の正楼がそびえ立ち、東西には鐘楼と鼓楼がある。創建ば1420年(明の永楽18年)だが、その後の火災を経て現在残るのは1647年(清の順治4年)と1801年(清の嘉慶6年)に改修されたもの。
 午門では毎年旧暦10目1日に、次の年の暦を皇帝が民に与える「頒朔」という典礼が行われた(暦の管理は皇帝の専権)。また、正楼内には皇帝の宝座(玉座のこと)が設けられ、「献俘」という戦勝時の捕虜献納式典が皇帝の目前で挙行された。また午門前広場では「廷杖」といって法を犯した官吏を杖で打つ刑が執行された。門全体が逆凹字形をしているのは、スピーカーと同じ機能。皇帝の演説が遠くまで聞こえるように工夫した構造だ。考えたものだ。
(写真上:午門)(写真下:午門をバックに!)

内金水橋

 午門と太和門の間には金水河という人造の川が流れている。そこにかかるのが内金水橋。金水河と金水橋は、天安門の南のもあり、皇宮内部にあるものは特に内金水橋と呼ばれている。橋は5本あり、中央は皇帝専用。

 (写真:手前が内金水橋、奥が太和門)
   

太和門

 創建は1420年(明の永楽18年)で、当時は奉天門と称し た。1562年に皇極門と改称し、清入関後の1645年(清の順 治2年)に太和門と名付けられた。現在の建物は1889年(清の光緒15年)に再建されたもの。門の前には3つの階段が設けられ、一対の精巧な「銅獅」(銅の獅了)が置かれている。太和門は明代には「御門聴政」といって皇帝が臣下の上奏を聞いたり詔勅を発したりする場所として使われた。清代になると御門聴政は乾清門で行われるようになった。(写真:太和門)

太和殿

 太和殿は紫禁城の中心となる正殿で、すなわち中華世界の中心ともされた。白大理石でできた三重の基台の上に建てられた太和殿は総建築面積2377㎡で、基台を合わせた高さは35.5mと紫禁城では最大、現存する中国の木造築物のなかでも最大のものである。創建は1420年(明の永楽18年)であり、当時は奉天殿と呼ぼれた。その後1562年(明の嘉靖41年)に皇極殿と名を改め、1645年(清の順治2年)に太和殿と改称された。殿閣は数度にわたり消失し、現在あるものは1695年(清の康熙34年)に再建されたもの。
 太和殿は政治や儀式の中心として、皇帝の即位や婚礼、祝日の祭典、詔書の頒布など重要な国家的式典や儀式はすべてここで行われ、皇帝は広大な前庭に並ぶ文武百官の朝賀を受けた。映画「ラストエンペラー」における即位シーンなどを思い起こす人も多いことだろう。
太和門から太和殿に向かう 石段を登る
これが太和殿だ! ガイドの孔歐亞さんと一緒に!
太和殿から周りを見渡す。ウーン広い!

太和殿内部

 太和殿の内部は極彩色に彩られている。柱の文様は「和璽彩色」と呼ばれる皇宮専用のもの。中央には皇帝の宝座が置 かれ、周囲には龍が彫られた金色に輝く6本の巨大な柱「蟠龍金漆大柱」があり、その直径は1m もある。(写真:太和殿内部)

中和殿

 中和殿は太和殿の奥に位置し、太和殿での大典(公式行事)に赴く皇帝がその前に休息をとる場所。皇帝はここで諸大臣の朝拝を受け、その後おもむろに輿に担がれて太和殿へと向 かった。1420年(明の永楽18年)に創建された際は華蓋殿と呼ばれたが、明の嘉靖年間に火災に遭い再建、その際に名を中極殿と改めた。清の入関後、1645年(清の順治2年)に現在の中和殿という名前になった。中和殿は太和殿に対する控えの間であるとともに、天壇や地壇などで行われる祭祀の前に農具や種子を点検したり、玉牒という皇室の家系図を点検したりする場所でもあった。(写真:中和殿)

保和殿

 保和殿は中和殿の後方に位置している。創建は1420年(明の永楽18年)で、当初は謹身殿と称した。嘉靖年間に火災に遭い、その後建極門と改称、1645年(清の順治2年)に現在の保和殿となった。明代には大典の前に皇帝が衣装を替える場所であったが、清代には旧暦大晦日と1月15日にモンゴルなど外藩の王侯を招いて宴が行われた。また、乾陸期以降は科挙の最終試験である「殿試」がこごで行われた。順治帝や康煕帝が居住した時期もあり、当時はそれぞれ位育宮、清寧宮と称していた。
(写真:保和殿)
左は太和殿、右は中和殿 左は中和殿、右は保和殿

防水用貯水槽

 外朝から内廷に行く入り口付近に、「缸」と呼ばれる防火用の貯水槽がある。これも金メッキをした青銅製。金メッキがはがれているのは、義和団事件のときに8カ国連合軍が金星と誤解して削り取ろうとしたためである。
(写真:金メッキをした青銅製の防水用貯水槽)

乾清門

 内廷への正門となる門で、創建は1420年(明の永楽18年)。1747年(清の乾隆12年)に改修されている。門には3つの入口があり、石階の間には金メッキを施した1対の青銅製獅子像が置かれている。また、門に続く高い壁は赤く塗られひときわ鮮やか。門の左右にハの字形に並ぶ「照壁」という飾り壁には黄色と緑色の精緻な瑠璃文様がはめ込まれている。
 乾清門は清代iこは皇帝が諸大臣の政務報告を受ける場所としても使われた。このことを「御門聴政」という。

内廷への入口乾清門と睨みを利かす獅子清銅像

九龍壁

 長さ29.4m、高さ3.5mの瑠璃装飾の壁で皇極門の南対面にある。九匹の龍が描かれており、完成は1763年(清の乾隆38年)。北海公園と山西省大同にある九龍壁と合わせて三大九龍壁とも呼ばれる。中国では九は最大の陽数であり、五は中央の陽数であるごとから、天子の尊さを表すと考えられていた。九龍壁は270個の瑠璃片でできているがこれも五と九の倍数となっている。右から3匹目の龍の腹部には瑠璃ではなく彫刻本片がはめられているが、これは制作時に不注意で瑠璃片を壊してしまった職人たちが死刑を恐れて彫刻本片を塗装して隠蔽したものといわれている。
(写真:皇極門の南側に位置する九龍壁)
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珍宝館

皇極殿(珍宝館)

 1689年(清の康煕28年)に建てられ、当初は寧寿宮といった。1776年に改築されて皇極殿となり、1796年(清の嘉慶元年)に乾隆帝が息子の嘉慶帝に皇位を表面上譲って「太上皇」位にについたときにはこごで「千叟宴」という大宴会が催された。また1894年(清の光緒20年)には西太后の60歳を祝う宴が開かれている。建物は乾清宮を模しており、そっくりである。2008年4月現在「珍宝館」「石鼓館」として故宮が収蔵する珍しい文物の展示場となっている。

養性殿

 1772年(清の乾隆37年)創建。内廷の養心殿を模した構造で本来は乾隆帝が居住するために造られたが、結局乾隆帝は養心殿に住み続けたため、ここに住むことはなかった。

養性殿の入り口 養性殿の内部
養性殿の内部

暢音閣

 1776年(清の乾隆41年)に完成した京劇用の舞台。建物は三層構造で、福禄寿にあやかり上層は福台、中層は禄台、下層は寿台といい、全体の高さは20.71m。劇はおもに下層の寿台で演じられたが、三層ともに天井に穴があってつながっており、役者が行き来したり大小の道具が行き来したりして大がかりで複雑な演出を行った。

下層は寿台 3層構造
京劇専用舞台 彫刻がすばらしい

閲是楼

 暢音閣の北側にあり、暢音閣で演じられる京劇を南面して見られる観劇施設。創建は1772年(清の乾隆37年)で1874年(清の同治13年)に西太后40歳の祝いの観劇に合わせて大改修された。楼内には宝座があり、東西の回廊では大臣や貴族などが観劇した。1894年(清の光緒20年)の西太后60歳の祝いの折には光緒帝や妃たちとともに10日以上も京劇を観たと伝えられる。2008年4月現在、 暢音閣とともに「清宮戯曲展」の展示場となっている。

閲是楼内の王座 この部屋から京劇を観劇した

楽寿堂

 1772年(青の乾隆37年)創建で、乾隆帝追位後の寝宮となりまた西太后も暮らしたことがある。殿内には中国で最大級の玉(ぎょく)の彫刻である 「大禹治水図玉山」がある。高さは2mを超え、重さは5トンもある。玉は新彊から運ばれ、制作には10年の歳月を要したという。

楽寿堂に向かう 楽寿堂
大きな象牙 「大禹治水図玉山」
一見の価値あり!

景祺閣・珍妃井

 景祺閣は1771年創建の小さな殿閣だが、その後ろにあった小院内に光緒帝妃の珍妃が幽閉されていたことで知られる。 珍妃は聡明で詩画にも秀でていたため光緒帝に愛されていたが、1898年に帝の進めた改革運動である変法自強運動(戊戌の変法、百日維新) を支持したために西太后(慈禧太后)の反感を買い、その失敗後は景祺閣裏の小院に監禁されてしまった。1900年に8カ国連合軍が北京に迫ると西太后は光緒帝を連れて西方に逃げるが、それに先立ち太監に命じてまだ25歳の珍妃を楽寿堂裏の小井戸に突き落として溺死させた。その井戸が「珍妃井」で現在も残っている。遺骸は1年後にようやく引き上げられ、正式に埋葬されたのは1913年のこと。
(写真は、珍妃井が突き落とされた小井戸)

角楼

 角楼は、紫禁城を囲む城壁の四隅に設けられた楼閣で、元来は皇居を防衛するための見張り台的な施設。地面から屋根頂点に設けられた「宝頂」 までの高さhは27.5m。その形状はユニークで、入母屋が交叉する構造はどことなく日本の城の天守閣を思い起こさせる。

珍宝館の出入口付近から角楼を見る 神武門を出て景山前街から角楼を見る

景山公園の万春亭を望む

 故宮の北門である神武門のさらに北ある公園。面積は約23万k㎡で、園内南側にある景山(人口の築山)の高さ43m(海抜108m)。影山公園は故宮と同じく北京の中心線上にあり、かつそのなかでも最高地点。景山頂上にある万春亭から見下ろす故宮はまさに絶景で、大小の殿閣上の瑠璃瓦が燦然と輝き、遠く北京市内の四方を見渡すことができる。そうです。
(写真:故宮の神武門へ行く途中で、前方に景山公園の万春亭を見る)

神武門

  内中路の北端に位置する紫禁城の裏門。創建は1420年(明の永楽18年)で、当初は玄武門(玄武は北の守護神)と呼ばれた。門の壁には郭沫若による「故宮博物院」の巨大な額がかかっている。午門から入場した場合、時間がなければごの神武門から退場すれば、だいたい2時間で主要部分を見るごとができる(逆も可)。

神武門を出た広場から撮る 景山前街から神武門を見る
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昼食は麺料理

 お昼は、紅墦飯店のなかのレストランで、麺料理を賞味した。今回の中国料理は、殆どが回転付きの円テーブルだったが、ここでは、14人全員が1つのテーブルに座らされた。こうなると、テーブルの廻し合いで、落ち着いて食事をすることが出来なかった。
 食事が終ると、店長が下手な日本語ですが、と言いながらオチョコぐらいの茶のみを全員に配り、これは、木魚石でできており、簡単に割れません。と2つのオチョコを強く叩いて見せた。また、これで飲むと、まろやかになり体に効きます。と説明しながら商売を始めだした。でも、誰も買おうとしないので、店長は、オチョコを2~3個オマケする。など必死に頑張っていた。こちらから4個付けて、日本円で1000円! と言ったら、しぶしぶしながら交渉が成立した。何人かが買ったので、やっと釈放された。私もコップを買って、焼酎を飲んでいるが、なんとなくキツサが取れてまろやかになっている、と感じながら飲んでいる。

麺料理を賞味した店 木魚石の器

門前大街散策

 門前大街散策に向かう途中左手に城門を見かけた。これが正陽門か?正陽門は、毛主席紀念堂の南側にある城門。1420年(明の永楽18年)に造られた高さ42mの門は、その当時城内で最も高い建造物であった。当初は麗正門と名付けられたが、1436年(明の正統元年)に正陽門に改称された。現在もこの名が正式名だが、一般的には通称である「前門」の名で呼ばれることが多い。正陽門の前には城楼や箭楼がある。その南側に門前大街がある。
 門の南側は、古くから商業街としてにぎわってきた地域。2007年からは古い写真をもとにして、清朝末期から民国初期の町並みを復元する工事が進められている。.完成後は歩行者天国となり、南北約800mを当時のデザインを復元した路面電車が走る予定だ。
 また、レトロな雰囲気の通り沿いに、北京ダックで知られる全聚徳をはじめ、多くの老舖が集まることとなるようだ。(写真:正陽門?)
門前大街の門 門の前で!
門と後方は箭楼? 箭楼を見る
北京ダックで知られる全聚徳 永遠と続く
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天壇公園

 次は、天壇公園を観光するが、途中、シルク店にてシルク布団の造リ工程を見学した。
天壇は、明、清時代の皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った場所で、現存する中国最大の祭祀建造物。北京市街の南部に位置し、総面積は273万㎡と、広大な面積を誇る緑豊かな公園になっている。
 天壇は圜丘と皇穹宇、祈年殿を合わせた総称で、1420年(明の永楽18年)に創建された。敷地内には、圜丘、皇穹宇、祈年殿が南北一列に整然と並んでいる。大地を象徴する南端は方形の壁で囲ま絋天を象徴する北端は半円形の壁で囲まれており、北側を高く設計することで天地の世界を表現している。1998年に世界遺産に登録された。
 今回は、祈年殿のみを観光した。(写真:シルク布団造りを見学した建物)
東門から入園したか? 青線は北京オリンッピクの
マラソンコース
こんな狭い門も走ったのか マラソンコースでポーズ!

祈年殿

 天壇を代表する祈年殿は、大理石でできた3層の基壇の上に建ち、3層の瑠璃瓦の屋根を持つ高さ38m、直径30mの堂々たる円形の木造建築物。梁と釘を1本も使っていないそうだ。
 1420年に創建されたが、現在の祈年殿は1889年(清の光緒15年)に落雷により焼失した後に復元されたものである。
 皇帝は毎年正月に、ここで豊作を願った。祈年殿の内部には皇帝の玉座が安置される。建物を支える28本の柱にはそれぞれ意味があり、4本の柱(龍井柱)は四季を表し、周りの12の金柱は12ヵ月を、そのほかの12の柱は12の時刻を表している。(写真:祈年殿)
祈年殿をバックに! 祈年殿
梁と釘を1本も使っていないのが分かりますか?
祈年殿の周りを見てみる。結婚式のカタログ用に写真を撮っている。
帰りは長廊を歩く。結構長い! 広場でフォークダンスを踊っていた!
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工芸品店でショッピング

 夕食前に工芸品店でショッピングする時間があった。品物を見て廻ったが、何も買わなかった。例の木魚石のオチョコを見つけた。100元がセールスして70元になっていた。確かに1ケ1000円はする。我々は、お昼にイイ買い物したと密かに喜んだ。
(写真:工芸品を見て廻った店、随縁芝本館)

夕食は北京ダック

 北京ダックといえば全聚徳。全聚徳は、1864年楊全仁によって創業されて現在既に五代目で、企業として国営化され、現在は傘下に 50以上の企業があり、中国の外食産業のリーダー役を果たしている。中国国内では60以上の店舗を持ち、海外の進出も進めている。そうです。詳しくは、こちらのぺーじで、「全聚徳の歴史」をご覧ください
 我々は、どこのお店か分からないが、「全聚徳」の北京ダックを賞味した。

「全聚徳」の店に入る 北京ダックのスライスショウ
北京ダックを召し上がれ お店の前は人通りが多くなっていた

京劇を鑑賞する

 夕食が終わり、ホテルに帰る組と京劇を鑑賞する組と分かれた。京劇を鑑賞するのは、半分の7人だった。何処に向かってマイクロバスは走っているのか分からないまま、約1時間以上掛かって、劇場についた。どうもホテルらしい。1階は、食事しながら鑑賞できる。我々の席は2階の一番前だった。セリフは、両サイドに液晶画面に表示されるが、中国語と英語だった。

1階はレストランになっている お茶を入れるパーフォマンス
京劇を鑑賞する
フィナーレ 京劇を鑑賞したホテル
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4日目:モーニングコール: 5:30
     出発        : 6:30

無事に帰国する

 京劇の鑑賞が終わり、ホテルに帰ろうとしたとき、ガイドの孔歐亞さんが、「他のツアーで病人が出たらしく、そちらに向かうので一緒にホテルに帰れない。」といって、分かれた。孔歐亞さんも忙しい人だ。 帰りは、30分も掛からないでホテルに21時過ぎに到着した。
 朝5時30分モーニングコール、6時30分出発。朝食は、バスの中で。飛行機は、9時40分に離陸した。機内で昼食をして、13時42分には無事成田に着陸した。

 
シャトルでゲートに向かう ゲート前のロビー
ボーイング757に乗る 機内の昼食、チキン

 
 忙しいツアーだったが、2万5千円で、北京市内を観光出来たので、良かったと思う。現地ガイドの「孔歐亞」さん、ドライバーさん、お疲れさまでした。

  写真の拡大は、「クイックリイに写真を閲覧」をご利用ください。




このページは、下記の資料を参考にして作った。
 「地球の歩き方 北京 天津」  発行所 株式会社ダイヤモンド・ビッグ社